コラム

不足の美

「茶の湯」は日本の文化として、もてなしや所作、作法、物の考え方などの大本をなす。まず前提とするのが「足りない」という事。つまりそこに本来あるべき物が無い、しかしあるが如くに振る舞い、考え、感じる、という事だろうか。「不足の美」である。例えば我々日本人は当り前の様に言外を察し、行間を読み、あうんの呼吸で理解する。しかし、戦後に顕著となった欧米思想の影響で、ハッキリしない事や不足は悪となり、コミュニケーションとしての言葉の量は増え、満足は顧客満足度という指数で計られる様になった。

仕事柄、離れの茶室を拝見する機会があるのだが、狭い躙り口から、整然とした茶室に通された時の感覚は正に明鏡止水である。言語や指数などを超越した小空間がそこにある。「何もないけれどもどうぞ」と言われた瞬間に、そこに無い物、足りない物が凛然と立ち上がってくる。閉寂とした数奇屋の中で過ごす時間は眠っている日本人のDNAを刺激する。