独断偏見『初の女性東京都知事誕生!』マキタ流考察

「パラダイムの転換」

成熟社会におけるリーダーは、才知に長けた女性こそ適役だろう、と個人的には常日頃思っている。国際的に見てもドイツのメルケル首相やイギリスのメイ首相、はたまたアメリカもヒラリークリントンが濃厚なところを見れば、まさに時代はフロンティア精神で突き進む開拓型の男性力ではなく、感性による判断ができるアート型の女性力こそが求められるはずである。

成長社会では勤勉、実直、努力を旨とし、昨日よりも今日、今日よりも明日、と進歩や上昇がなにより重要視されてきた。特に日本社会は共同体として強い。エネルギーの法則からも「集×動」つまり、集めて動かせば強くなる。

強い共同体を持つ日本は、瞬く間に世界のトップに躍り出た。しかし、成熟期を迎えた日本に必要なのは、進歩や上昇志向などの数の増大やエリアの拡大ではない。安定や充足感、そして上質感の取得なのである。静岡県の川勝知事がいみじくも言っているように、戦前は軍事力、戦後は経済力、これからは文化力なのである。

歴史を遡れば、多々検証できるのだが、近いところでいえば、江戸時代の初期は100年で人口が2倍になった成長期。その後の中期、後期にあたる文化文政時代は0成長社会になった。しかし、江戸文化が一番栄えたのはこの時期なのである。つまり、すでにある高水準の経済を更に拡大、拡張するのではなく、どのように活かすのか、ということになる。実はこれが、旧態然として頭の切り替えが難しい男性陣にはできないのである。そもそも、彼らの頭の中には文化や芸術という領域が無い。仮にあっても重要視すべきものではない、という決めつけが頑なにあるように思う。

美輪明宏は云う。「日本の中高年の男性には文化がない。これが高い自殺率の原因である。あるのは、物欲、名誉欲、性欲、食欲の四本立てと、利便性、機能性、経済性の三本柱だけである。」誠に言い得て妙だろう。

そのような男性陣に対して、周りの中高年の女性を見渡せば、観劇に美術鑑賞に音楽鑑賞、ショッピングに旅行に、と文化活動に忙しすぎてとても自殺している暇などなさそうである(笑)。



「小池百合子都知事への想い」

さて、小池百合子都知事である。

才色兼備を絵に描いたような女性だが、女としての繊細さと、男のような大胆さを兼ね備えた両性具有のヘルマフロディトスではないか!と思わせるような両面があり、その「謎」に魅了されてしまう。

更に「百合子」という名前が絶大である。これ程「百合子」が似合う女性はそうやたらにはいない(笑)。もし、小池百合子が小池敏子だったら、小池和子だったら、と想像してもらえば、その不一致さを理解いただけると思う。

決して、敏子さんや和子さんに恨みがある訳ではないので悪しからず(笑)。

実は、私は夏でもネクタイを締める生活を30年以上続けていて、周りがノーネクタイだろうが自分は変えるつもりは毛頭なかった。

いつからか「クールビズ」なる変てこな名前が喧伝されはじめ、夏になると周りからネクタイがどんどん消えはじめたのだが、私は「何がクールビズだ!ネクタイにスーツはビジネスマンの制服だ」と言い続け、決して屈することはなかったのである。

ところが、遅蒔きながら何とクールビズの発案提唱者が小池百合子だと知った翌日から、ネクタイをかなぐり捨てて「高温多湿の日本にはクールビズが最適だ!」と皆に言いはじめたのである(笑)。

全く、今思い出しても自分の節操の無さにはあきれかえるが、言い訳をすれば、「いったん好きになったら何があろうと否定しない。」つまり受け入れる、という私の生来の習性によるのである。



「小池百合子都知事の三つの格別」

人として「小池百合子」に着目する私から視ると、彼女には常人が持ち得ない特筆すべきものが三つあるように思う。さて、この三つをじっくりと探ってみたい。

まず一つ目は『日本人離れが甚だしい』である。1970年代(昭和40年代)にエジプトのカイロ大学へ行くこと自体が尋常ではない。しかも女性で、である。後にも先にもイスラムに着目してカイロ大学へ行ったのは、彼女以外には中田考(イスラム法学の日本の泰斗)くらいだろう。

先日、あるTV番組でキャスターが彼女に「小池さんはたまたまカイロ大学に行かれたのでしょうが、折しも時代はイスラムを抜きには世界を語れなくなりました。そのあたりはいかがでしょう?」と聞いたら、即座に「たまたまカイロ大学へ行ったのではなく、予見して入ったのです。」とピシャリと返した時には、TVキャスターの慌て振りといったらなかった。

とにかく日本人は100人いれば99人は「寄らば大樹の陰」彼女は間違いなく、そうではない1人なのである。

二つ目は『強靭なる大局観』である。読書は教養の土台であり、教養は大局観の土台となる。文学や芸術、歴史、思想といった実用に役立たぬ教養なくして、健全な大局観を持つのは至難である。

実は、日本の危機の一因は大局観の欠如に他ならない。己の利得からしか物事を見ていない者が跳梁跋扈する今の世情は、まったく凄まじいかぎりである。他人の不幸は蜜の味で、スキャンダルは血湧き肉躍るのだろうが、四六時中そんな事ばかりに翻弄されて一喜一憂していては、日本人のレベルは上がろうはずがない。

従って、小池百合子は「掃き溜めに鶴」なのである。彼女の大局観は、優に富士山を超越する程の視座なので、常人の視座ではレベルが違いすぎて話にならない。それは、衆議院議員当時の国会答弁のやりとりを見れば一目瞭然である。

更に、彼女の身上は持ちうる教養をひけらかさない、つまり決して衒学的ではない、というところにある。「秘すれば花」を充分にわきまえているのである。

そして三つ目は『公私のバランスが7:3』人は公私のバランスで視ると、その人が解かる、というのが私の持論である。半世紀近くそのような目で視てきたが、大体合っている。

「公」が6以上で悪い人はまずいない。7か8であれば人物的に心酔する方ばかり。逆に「公」が5を割って4以下の方は、当然「私」が6以上になるのだが、大体信頼関係を築くのが難しい人が多いように思う。

敬意とは、自分が敬意を持った相手からしか返ってこない。敬意を抱かせる人とは、自分の事より人のため、つまり「公」のために、という気持が自然に備わっている人をいうのである。

小池百合子の7:3という公私のバランスは、立身出世のために後天的に備えたものではなく、元来の彼女の人性によるものだろう、と私は推察している。

実はこれこそが「小池百合子」という人間の真骨頂なのである。

最後に私のツイッタ―『蒔田正孝の日刊マキタダイアリー』9/28より、「出すぎた杭は抜かれるのが日本の社会。いつまでたっても村社会構造は変わらず。レベル1の日本に突如としてレベル5の都知事出現。皆でレベル1へ足を引張るのではなく、我々がレベル5に近づくよう尽力し、助力を惜しまない、これが正解。」

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2016年10月11日